勝利の歌を忘れない

中田英寿、小野伸二、中山雅史など、サムライブルーを背負ったサッカー日本代表の英雄たちを胸に刻むブログ

中田英寿の勝利の歌を忘れない(名言、感動プレー集、同世代選手...and more)

中田英寿

サッカー界において「NAKATA」は、日本だけの英雄ではなく、紛れも無く世界にインパクトを残した存在です。

日本サッカーにとっての英雄、欧州サッカーにおいてのサムライ中田英寿を、いつまでも忘れずに記憶に残し続ける。

そんな手助けをこの記事でできればと思います。

中田英寿プロフィール

中田英寿
生年月日 1977年1月22日
出身地 山梨県
歴代所属チーム ベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ):日本
A.C.ペルージャ:イタリア
A.S.ローマ:イタリア
パルマA.C.:イタリア
ボローニャF.C.:イタリア
ACFフィオレンティーナ:イタリア
ボルトン・ワンダラーズF.C.:イギリス
日本代表歴(主な試合) 1992年 U-16アジアユース
1993年 U-17アジアユース(ベスト8)
1994年 U-19アジアユース
1995年 ワールドユース(ベスト8)
1996年 アトランタ五輪
1998年 フランスW杯
2000年 シドニー五輪
2001年 コンフェデレーションズカップ(準優勝)
2002年 日韓W杯決勝(ベスト16)
2003年 コンフェデレーションズカップ
2005年 コンフェデレーションズカップ
2006年 ドイツW杯
受賞歴 1997年 リーグベスト11
1997年 AFC 年間最優秀選手賞
1997年 日本プロスポーツ大賞(内閣総理大臣杯授与)大賞
1998年 AFC 年間最優秀選手賞
1998年 日本プロスポーツ大賞(内閣総理大臣杯授与)殊勲賞
00-01 セリエA 優勝(スクデッド)
01-02 イタリア杯 優勝
2006年 イタリア連帯の星勲章受賞
2006年 カヴァリエーレ勲位

中田英寿と同じ世代の選手

中田英寿

中田英寿と同じ世代(1976年4月2日~1977年3月31日生まれ)にはこんな選手がいました。

楢崎正剛(名古屋)、鈴木隆行(鹿島、米国など)、福西崇史(磐田、ヴェルディなど)財前宣之(ヴェルディ、仙台など)、波戸康広(横浜M、大宮など)、安永聡太郎(横浜M、清水など)佐藤由紀彦(FC東京、長崎など)、鈴木和裕(水戸など)、久保竜彦(広島、横浜Mなど)、西澤明訓(C大阪、清水など)

代表でインパクトを残した選手も多い世代ですね。

中田英寿が感動をくれた試合

中田英寿

中田英寿ほど、多くの大舞台を経験してきた日本人選手は少なく、日本中を感動させるシーンは数えきれないほどにあります。

その中でも、完全に個人的なベスト3を選ばせていただきました。

1位 トッティと交代出場で魅せた伝説の2発!スクデットを手繰り寄せたユベントス戦での神がかりNAKATA

ロマニスタにとって、NAKATAと言えばこの一戦と言われるくらい、当時のセリエAに衝撃を与えた一戦。

シーズンも終盤29節。首位ローマを勝ち点6ポイント差で追うユベントスとの、首位攻防戦。ローマにとってあまりにも厳しいアウェー戦。

0-2のビハインドを背負っていた後半に、絶対的なキャプテンでエースのトッティと交代で出場。

直後、中盤から強烈なミドルシュートをユベントスゴールに叩きこみ、1点差に追い上げます。

そしてさらに、試合終了間際にも中田がミドルシュートのこぼれ球からモンテッラの同点ゴールが生まれました。

実はこの一戦の直前に、ベンチメンバーのEU枠規制が撤廃されていたんです。

EU加盟国の国籍を持たない選手は1試合に3人までしかベンチ入りできないというこのルールによって、この試合までは、中田はベンチ外になることもありました。

そのEU枠が撤廃された最初の出番。シーズン終盤で、優勝を争う相手に引き分けに持ち込んだことで、スクデット獲得を決定づけた一戦になりました。

この活躍により、中田は今でもロマニスタの間では英雄として記憶に刻まれています。

2位 98年W杯、日本人誰もが絶叫したクロアチア戦での惜しすぎるゴン中山へのループパス

今観ても、「があ〜!!」と声を上げてしまうこのシーン。

初戦のアルゼンチン戦に惜敗し、どうしても勝ちを拾いたい日本。0-0のまま迎えた前半33分、右サイドで自らボールを奪取した中田がそのまま持ち上がり、ゴール前のゴン中山へ浮き玉のパス。絶妙すぎるパスが中山の足元へピタッと収まり、渾身のシュート!、、、このシュートが決まっていたら、初のW杯でグループリーグ突破もあり得た。

何度観ても悔しく、何度観ても中田の存在感を感じるシーンです。

3位 中田のガッツポーズを忘れない!豪雨のオーストラリア戦、コンフェデ決勝進出を決めた地を這う弾丸フリーキック

2001年コンフェデレーション杯。2002年日韓W杯のプレ公式大会として日本と韓国で開催されたこの大会。

準決勝、豪雨のオーストラリア戦、0-0で迎えた前半43分、ゴール正面でのフリーキックで直接ゴールをあげた中田。このゴールが決勝点となって、FIFA主催のA代表の世界大会としては初の決勝に導いた試合でした。

日本人初のセリエA優勝の瞬間に立ち会うために、中田は決勝戦には出場せずにイタリアに帰国し、トルシエ監督と一悶着あったというのは有名なお話ですね。

中田抜きの日本代表は決勝でフランス代表に惜敗。このオーストラリア戦のフリーキックは、より中田の存在感を際立たせる象徴的なゴールとなりました。

中田英寿が引退を決めていた最後のW杯

2006年W杯を最後に、中田英寿は現役を引退しました。

本人がどう捉えているかはもちろんわかりませんが、中田英寿が最も苦しんだ時期と言えば、2006年のW杯ではないでしょうか。

実力的に中心選手でありながら、チームの中で孤立を深め、他の選手との連携、一体感という部分でチームの中で輝くことができずに、W杯が終了。引退を決意していた中田としては、なんとしてもグループリーグを突破したかった大会なだけに、悔しさ、落胆が大きかったはずです。

いかに過去に2006年のW杯が厳しいものだったかを、過去に中田が出場したW杯と比べてみましょう。

1998年W杯は1勝もあげることができず、グループリーグ敗退。

しかし、初の出場だったこと、中田個人のパフォーマンスは高く、欧州への移籍の足がかりになった大会だったため、どちらかというとポジティブなイメージが強いです。

この大会では中田は年少の部類だったため、自由なプレーや主張が許され、ポテンシャルを存分に発揮できたのではないでしょうか。

2002年自国開催のW杯。W杯初勝利、初のグループリーグ突破を決めたこの大会は、日本にとって歴史的大会となりました。

年齢的に中堅になっていた中田ですが、本大会直前にメンバー入りしたゴン中山、秋田豊といった年長者の存在により、プレーヤーとして専念できたのが大きかったです。同世代でも松田直樹のような、中田に物申せる存在もチームのバランスを保っていられた要因だと思います。

そして迎えた2006年大会。過去最高レベルの人員と言われたにも関わらず、1勝もできずにグループリーグ敗退。

29歳になった中田は、体力面、経験面でもピークであってもおかしくない状況。でも何か、歯車がかみ合わない。

W杯前のマルタ戦で、そのすべてが出てしまった気がします。
その悪い流れのまま初戦のオーストラリア戦を迎え、終盤6分間で3点を失い逆転負け。

この初戦が、この大会のすべてを決めてしまったと言えるでしょう。

中田英寿のプロ初ゴール

ベルマーレ平塚でプロデビューを果たした中田のプロ入り初ゴールは、1995年J第13節、鹿島アントラーズ戦で生まれました。

ミドルだったんですね。後に日本代表やセリエAでがんがん決めていたミドルシュートと姿勢もフォームも思い切りも、この頃からすでに持ちあわせていたんですね。

ちなみに、中田選手がJリーグに在籍したのは、1995年から1998年途中まで約3年間だけだったんです。その間にJリーグで決めたゴール数は16。

このベルマーレ時代が、世界のNAKATAへ進化していった原点ですね。

中田英寿の名言

中田英寿

中田英寿がこれまで残してきた言葉は、自然な言葉でありながら、頭の片隅に残り続ける名言ばかりです。

そしてそれは、サッカー選手にとってだけでなく、一つでも自分を成長させようとする20代、自分の人生に迷い始めた30代、40代にも刺さる人生の名言です。

中田英寿の言葉で特に胸に刺さる言葉をセレクトさせていただきました。 

自分が自分に “良くやっている” って思ったらその時にはもう

終わりが近いってことだよ。

痛みなんて結果を得ようとしたら些細なことでしかないから

頑張るのは当たり前で、あえて口に出して言うことではなく、その上で何が出来るのかを考え実行するのがプロでしょう。

足のどの部分で、どのくらいの力で蹴ると、どういうパスになるのか、頭の中にインプットしながら蹴らなきゃ駄目。イメージしたボールと同じボールが蹴れるまでパスを繰り返す。誰かに教わっても、自分の体が覚えなければ、すぐ忘れるだけだから

プロは練習が嫌いになるくらい練習するのが当たり前。だから僕は練習が嫌い

「右へならえ」をすれば、自分の責任はなくなるからね

自分にできることを積み重ねていけば、必ず流れが変わる日が来る。それを信じていられるうちは、どんなことにも耐えられるよ

中田英寿ファッション

サッカー選手には、プレーや結果だけにこだわる選手、ファッションや見た目などのタレントとしての個性にこだわる選手、この2種類に分かれます。

中田英寿は後者で、ファッションや髪型など、タレント中田英寿としての見られ方も常に意識している選手でした。

そんなサッカー界のファッションアイコンとしても、地位を確立していた中田英寿のファッションをまとめてみました。

中田英寿 ファッション

中田英寿 ファッション

中田英寿 ファッション

中田英寿 ファッション

中田英寿 ファッション

中田英寿 ファッション

中田英寿の髪型

中田英寿は、ファッションだけでなく、髪型も常に気を配っていました。98年W杯ではメンバー の中で1人だけ金髪で挑み、プレーだけでなく見た目でも世界にインパクトを与えました。

そんな中田英寿の髪型をまとめてみました。(現役引退後も含む)

現役時代

中田英寿 髪型

中田英寿 髪型

中田英寿 髪型

中田英寿 髪型

中田英寿 現役引退後

中田英寿 引退

中田英寿 引退

中田英寿 引退

その後の本田圭佑といった自身のブランディングを意識した選手の髪型にまで、間違いなく中田英寿は大きな影響を与えるいるでしょう。それくらい、中田英寿の存在は大きかった。

中田英寿の勝利の歌を忘れない

中田英寿

中田英寿が引退し、日本代表はW杯常連国となり、アジアレベルでは強豪国と言われる存在なっています。本田圭佑、長友佑都、香川真司など、欧州のビッグクラブでプレーする日本人も増え、サッカー選手個人としてのレベルは間違いなく上がっています。

でもなぜだろう、ますます中田英寿の存在を大きく感じてしまうのは。

圧倒的な個性のパーソナリティのせいか?
欧州で活躍する選手が少ない時代に世界で活躍したからなのか?

理由はわかりませんが、中田英寿を超えるような強烈な日本人選手が、現れることが本当に楽しみです。

そして、中田英寿の現在から未来が、さらに楽しみです。